休日にライターのようにラグビーの取材をすることもある(けど最近お休み気味)

平日は私企業で営業マン、休日は時々ラグビーイベントとかの取材をしている30代男性のブログです。でも最近は本とか映画とかの話が多いです。

なぜ戦いは終わらないのか そして人は本当に多様性を受け入れることができるのか。/アラー世代 アフマド=マンスール

 重い、果てしなく重い現状と、否定できない指摘。

誰がいつ、そういう風に話をしていたのか、記憶が定かではないけれど、21世紀に入ってアメリカのいわゆる「テロとの戦い」が始まったころか、あるいはISISが台頭してきたころかに聞いた「これは相手を叩きのめして終わる戦争ではないんだ」という話を、最近の「イスラム国の拠点を制圧した」というニュースを見るたびに思い出す。

曰く「国家をつぶして終わりではない。また誰かが、同じように武器を取る、その状況を変えない限り、戦いは終わらない」と。

アラー世代: イスラム過激派から若者たちを取り戻すために

アラー世代: イスラム過激派から若者たちを取り戻すために

 

著者のアフマド=マンスールは1976年生まれのアラブ系イスラエル人。パレスチナの文盲の祖父母、ガソリンスタンド勤務の父のもとに育った彼は、テルアビブ大学に進学し、現在はベルリンで心理学者・ソーシャルワーカーとしてイスラム過激主義に傾倒する若者たちの救済、その家族への支援活動を行っている。自らもイスラム教徒であり、かつてムスリム同胞団の一員として活動した経緯を持つ彼が現場で見た若者たちの姿をもとに、何が若者を惹きつけるのか、それにどうあながうことができるのかを説いた本。

 

現在、ドイツには外国籍の住民が全人口の9%、移民を背景に持つ人達の数は全体の20%を超え、ムスリムは人口の約5%を占める400万人以上という。そのドイツで、イスラム過激主義に傾倒し、シリアへ、ISへと自ら赴く若者がいる。本書のタイトルともなっている「アラー世代」はそういった若者たちを指すアフマド=マンスールの造語である。アルカイダ、IS、ボコ=ハラムなどを頂点とするイスラム過激派のピラミッドを考えたときに、その下にあるムスリム同胞団、トルコのエルドアン大統領のようなシーンによっては強硬的なグループがあり、その下にいて土台となっているのが彼のいう「アラー世代」である。曰く「その思考と行動が、社会の価値観と合致せず、民主主義と相容れない若者たち」。そしてそれは数千人のイスラム教徒、といようなレベルではなく、一つの世代全体になっているという。移民の2~3世で、ドイツに生まれ育ち、ドイツ語を話す若者たち。しかし、そのアイデンティティとして自らのルーツである中東が戦火に見舞われる様子を見ながら育つ、あるいは社会から除け者にされる経験をしながら成長してきた若者たち。彼らを狙ってリクルーティングに来る宣教者たちも増えてきているという。そんな「アラー世代」を過激派にしないために、キリスト教ユダヤ教イスラム教・無信仰などの宗教を超えた、近代の個人主義の価値観を持つ共同体として共に在るために何ができるのか、が4章からなる本書の大きなテーマとなる。

 

第一章は彼自身の生い立ちから始まる。前述の通り、パレスチナで生まれ育った彼は、しつけの名のもとに、自立した思考を禁じられ、懲罰と暴力による恐怖が支配する中で育つ…というと日本じゃありえなさそう、な感じさえするかもしれないが、「いいから言うことを聞きなさい」という育て方だって、そう遠い話でもないだろう。そこにパレスチナ紛争の恐怖が混じり、不安・孤独・自信のなさを抱えて育つ中で、転機となるのが「君のなかにはもっと偉大なものになる可能性が秘められている」と断言したイマーム(宗教的な指導者)である。彼の一言は自尊心をくすぐる。そしてあっという間に彼の一種の父親役となる。家族もマジメに、信心深い感じがするのだから文句も言わない。しかしそのイマームからの教育はやがて過激さを増し、彼はイスラム原理主義の中によりどころを見つけるまでになる。その後、テルアビブ大学に進学した彼は、そこでユダヤ人とともに学び、様々な価値観に触れることで揺り戻され、やがてイスラエルからドイツに離脱する。そして、過激派からも距離を置くようになる。その後、言葉の壁を乗り越えた彼はドイツに住み続けるのだが、パレスチナに残してきた家族は沈黙を保ったままである。

 

第二章は実際に過激主義に傾倒する若者の実態を交えながら、その要因を探っていく。どういうポイントが若者を惹きつけるのかについても非常に具体的な、生々しい記述がある。何かの問いに対して、簡単明瞭な、善悪を二分する答えを持てないこと……社会を構成する上で一概に答えられないこと、は多様性を持つ現代社会の特徴であり、良さでもあるが、矛盾でもある。自分に余裕があれば、いろんな角度から物事を見て捉えられる。しかそそれこそ両親が難民であったり、移民労働者であったり、アラー世代の若者たちはそうではない場面も多い。ほとんど周囲…家族であり、学校であり、社会であり…から承認されてこなかった若者が、過激派のそれであったとしても、宗教という確固たる構造の中に「自分が何者か」を見出したとき、そこに敬意や権力の約束が植え付けられたとき、もはや若者を止めることは極めて難しくなる。宗教に若者がそうなってしまう状態になる要因について、社会の問題だけではなく、イスラム教側の問題についても指摘する。ある意味過激派のほうが、優れたソーシャルワーカーとなってしまう現状についても。

 

 第三章はどうするべきか、という処方箋の章。家庭や学校の現状を交えながら、特に学校について、何が問題なのか、どこを変えるべきなのかを具体的に指摘していく。ある教師が「クラスの31人中28人がトルコ人」「正しくはトルコ系でした」というが、実際にそのクラスへ行ってみるとトルコ系は2人、そのほかはレバノンパレスチナボスニア、モロッコなど……あくまでも「外国人の」「彼らの」問題として捉えてしまう例を挙げる。そのほか、入国審査などの例を挙げつつ、ある種の線引き、配慮のなさは人種差別のそれと変わらない、ということを指摘する。彼は「生徒の出自についてたずねないのは、生徒を差別しないようにするため」という主張に対し、その遠慮は根本的に間違っている、と断言する。ルーツなくして未来はない。自分がどこから来たかを知ること、個人史を振り返る授業の必要性だと。そしてもう一つが今起きている紛争や、その原因、事件などについて議論する時間を設けるべきだ、というものだ。そうでなくても、若者たちはインターネットやメディアを通じて本当は関心を持っているはずだという。

 

最後の第四章で、これまでの話をまとめる形で10個の提案が述べられ本書は幕を閉じる。「アラー世代」「イスラム過激派」という言葉だけで遠い話だと判断してはいけないテーマを含んだ本であったと思う。「日本は移民を受け入れるのか」という話もある。しかしそれだけでなく、どことなく共通項を見いだせてしまうドイツにおける現代の姿に、難民が押し寄せ、もはや移民国家となった遠いヨーロッパの国、ドイツだけではない普遍性がこの本にはあるように思う。様々な価値観やバックグラウンドを持つ人たちが同じ社会を構成していく時代。その時代に必要となるものを示す普遍性である。

 

ラグビー日本代表の試合に批判が多いのは前半のスコアが原因だと思う

先週末行われたオーストラリア代表・ワラビーズとのテストマッチ。2017年、国内最後のテストマッチ、会場もワールドカップ本番で決勝が行われる日産スタジアム、43,000人を超える観衆が集い、前半大きくリードされたものの、後半は代表初キャップの姫野のトライなど3本のトライでほぼ互角のスコア……が、どうもスッキリしない。

かねてより指摘されているハード面でのワールドカップ本番への準備の遅れ(会場までのアクセス、会場内の飲食…ビールが無い問題、そもそもやっぱトラックがあるスタジアムは見づらいetc、etc...)に加え、ここへ来てジェイミーの方針に対して疑問を呈す記事を出すメディア、ファンも増えてきた印象があります。

かく言う私も後半の2本のPGをはじめ、なんだかモヤモヤしてしまったのも事実。むろん、これまでの対戦成績を思えばワラビーズから30点取ったことは進歩だ、エディーのときだって疑問の声はたくさんあったじゃないか、という反論はごもっともだと思う。集まって短い状態で、けが人も多いチーム状況でよくやった、いや、これが現状の力の差なのだと認識できてよかった、むしろ本気で勝てると思っていたのか、と。

 

でも。おんなじ話を6月のアイルランドとの試合のあとにも、なんだったら、去年のアルゼンチンとの試合のあとも同じことを言ってませんでしたか、と思うのです。

この拭いきれないモヤモヤ感、がっかり感はなんでなんだろう、と考えていたのですが、ふと、「前半で試合が決まった中、後半はなんとか競った」みたいな試合展開にあるんじゃないかと思い至りました。

 

■2016/11

対アルゼンチン戦 前半6-21 最終20-54(15点差→34点差)

ウェールズ戦 前半13-14 最終30-33(1点差→3点差)

対フィジー戦 前半6-21 最終25-38(15点差→13点差)

■2017/6

アイルランド 第1戦 前半3-31 最終22-50(28点差→28点差)

アイルランド 第2戦 前半8-28 最終13-35(20点差→23点差)

■2017/11

対世界選抜 前半13-14 最終27-47(1点差→20点差)

対オーストラリア 前半3-35 最終30-63(32点差→33点差)

 

こうしてみると、前半競ってたのはウェールズ戦と、世界選抜戦。後半に差が詰められたのはフィジー戦のみ。戦術的な話はひとまず置いといて、見てる側の気持ちだけで考えると、前半で試合が決まっちゃった後に競ったとしても、なんだかなぁと思ってしまう。そりゃ30点空いてりゃ相手も多少気を緩めるよ、というか。当然ですが「後半だけ見たら互角だった」って、結局点差開いてる試合も多いしね……。

 

応援してる側ってつくづく勝手だなぁとは思うのですが、これは後半まだまだ分かんないよー!と思える試合が見たいな、と素直に思ってしまう今日この頃です。ヨーロッパでは果たしてどんな試合が見れるのかなぁ。

前回のTHIS IS USはそれなりに重かった気がするんですけど、どうなんでしょう。

国内最後のラグビーテストマッチが終わり、プロ野球が終わり。いや、ラグビーはここからがハイシーズンなんですが、なんていうか、もっとうまく楽しめるようになりたいと思っています……「うまく」というと違う気もするのですが、ちょっと適切な言葉が思いつかない。

 

さて、日曜夜の11時枠でやってる「THIS IS US~36歳、これから」は思った以上に周りのアラサー界隈で見ている人がいない。36っていうとちょっと上な印象があるのかしらとか、同じ枠でずっとやってたのがダウントンアビーでありエリザベスであり、しかもダウントンアビーの前は韓国ドラマやったから、ちょっと見てる人のターゲットが違うのかな、と思い始めた頃の5話目がなかなか重かった。

www4.nhk.or.jp

一度止まっちゃうともう一回動き出すのって大変じゃないですか。勢いを止めないって大事だったんだろうなぁと思うのです…今さらなのか、どーなのかわからんけども。

積読とインテリメガネ

積読がたまっている。たぶん30冊は下らない。電子も入れればもっと増える。

読み終えた本も本棚から溢れている。来年の夏までに引っ越しをする予定があって、引っ越し先は大きな本棚スペースがあるのだけれど、もはやそこも埋まっちゃうんじゃなかろうか、というぐらい。

なんやかんや、毎月1.5万円ぐらい本に使っている傾向があって(電子、マンガも含む)、きっと買ってる本の数で行くと毎月12,3冊ぐらい。図書館で回ってくる本が4~5冊。でもずっと記録をつけているブクログによると、月に読めている本の数は14.6冊なので毎月ちょっとずつ積読が増えている。

人にはいろんな「買い物神経症」があると思うけれど、僕は間違いなく本がそれにあたっていて、会社が神保町に引っ越して、平日にも東京堂に行けるようになってその傾向が加速している。

溢れる本に自覚はあって、毎日出版されている本の数と自分が読める限界みたいなものも当然認識はしているし、DINKSやってる今だからまだ読む時間があることも感じている。仕事、映画、スポーツ、家族、休息……元芸人さんに言われるまでもなく、24時間は奪い合いであることはわかっていて、読む時間を増やせないなら読む速さを上げるしかないのだけれど、速読は身につかず、それでも、ふとおもしろそうだと感じた本を、それが「読みたい」「欲しい」という気持ちがなかなか抑えられない。実際全部読み切れていないし、後になってなぜこの本を?というものもある。

 

もはや何を読むかではなく、何を読まないかだ、なんてFacebookに書いたりもしたけれど、じゃあ読んだ本をどこまで血肉にしているか、と問われると言葉に詰まるし、もはやその本を「買っている自分」「読んでいる自分」を買っている感じすらある。

たぶんその感覚は正しくて、ゲンロン友の会なんてずーっと会員やってるけれど、でもじゃあデリダがどうした、ドゥルーズがどうした、と言われると自分の言葉で語れるほど何か体系的な知識を得られているわけではない。ただただ開いて、目を通して、それだけ。ただふとした時に、いろんなものがつながることがあって、それがせめてもの救いなんだろう。

 

人生には限りがあって、天才でもないので自分の頭で考えられる量には限界があって、富豪の息子ではないので、毎日あくせく働いているので好きにあちこち行けるわけではない。

本はほかの人の目を、頭を、経験を借りることだと言った人がいたと思うけど、本になるまでに注ぎ込まれた時間・労力を数千円で借りて、ひたすら浴びていきたい。編集者を気にしたりとか、深く読めている自信も全くないし、消費者に過ぎないとは思うけれど、そこは少しでも変えていければ。そうすれば真のインテリメガネも近づいてくるだろう。 

 

世の中の基盤をデザインする/法のデザイン 水野祐

 ゲームじゃないリヴァイアサンの、「万人の万人による闘争」という言葉を習ったのはもう十数年前になってしまうけれど、社会のルールとしての「法」は私たちが生きていくには欠かせないもの。そしてそのルールは時代とともに変わっていく。

単に変わっていくのではなく、ルールを「超えて」いくというマインドで、ルールがどうあるべきかを主体的に考え、関わり続けていくというスタンスで、アフターインターネットの現代社会において、法を取り巻く環境について弁護士でもある著者の考察をまとめた一冊。

法のデザイン?創造性とイノベーションは法によって加速する

法のデザイン?創造性とイノベーションは法によって加速する

 

 本書のポイントは2つ。1つは通奏低音である「リーガル・デザイン」という考え方。ざっくりいうと、法律や契約を主体的にデザインする、そして単に規制・制限するものではなく、促進・ドライブするためのものとしてとらえよう、というもの。それは単に「新たに法を作る」上でのデザインだけではなくて、どう解釈・運用するかという話にもかかわってくる。高度な情報化社会において、どんどん生まれていく新たなサービスは、現行法が想定していないところを突いてくることもしばしば。法整備が追い付かないとなると、その解釈や運用の「余白」や「ゆらぎ」が大きくなる。そこを私人の側からも作っていこうよ、という思想も入っている。

もう1つは主に第2部で解説される、音楽、二次創作、出版、アート、写真、ゲーム、ファッション、アーカイヴ、ハードウェア、不動産、金融、家族、政治という13のテーマの特に法に関わる部分での現況。これら13のテーマの中には、それこそインターネットがもたらした劇的な変化の中で、見方によってはグレーゾーンな部分を生かしたイノベーションがあったりする(「金融」では仮想通貨、「不動産」ではAir BinBなどにも言及されている)。各ジャンルで起きていることも違えば、これまでの慣習、ルールも違う。ただそこでどういう解釈がされているのか、というところまで含めて、日本だけではなく世界中の動きも簡潔に、しかし要点を抑えて説明しています。ゆえに、法律の部分はもちろん、これらのテーマで「今どういうことが起こっているのか」を知る上でも役に立つという、非常にありがたい本でもある。

 

水野氏自身には、本書にも掲載されているアーティスト集団Chim↑Pomが2011年に立件されたときに検察庁に提出した意見書をはじめ、多くのアーティストとの関わり、あるいはクリエイティブ・コモンズ・ジャパンの活動などのイメージがあったけれど、ITやまちづくりなど、幅広い分野にわたって活躍されているのだな、というのも実感した1冊でした。

「靭帯」 この脆く危ういもの/剛腕 ジェフ・パッサン

2107年8月、一人の元メジャーリーガーが静かに引退を発表した。トッド=コッフィー、36歳。メジャーでおよそ8シーズン、主に中継ぎとして活躍した投手で、日本でプレーヤーとしてその名前を知っている人は少ないだろう。全力疾走でマウンドに上がる男、あるいは死者の腱を移植した男として知っている人はいるかもしれない。

そんなトッド=コッフィーをはじめ、現代の投手のケガとして最も影響が大きく、数も増えている靭帯の損傷とトミー・ジョン手術を軸に、なぜその解決方法がいまだ確立されないのか。その現状を追った本である。

 

豪腕 使い捨てされる15億ドルの商品 (ハーパーコリンズ・ノンフィクション)

豪腕 使い捨てされる15億ドルの商品 (ハーパーコリンズ・ノンフィクション)

 

 MLBが投手に払っている年俸総額は15億ドルを超えるという。この金額はNFLが先発クオーターバックにかける費用の5倍、NBAの年俸上位200人の合計も上回るそうだ。NPBも同じようなものかもしれない。かかる状況を著者は「スポーツの世界で一番貴重な資産」であると例える。

一方で、MLBの約4分の1の選手の腕に、トミー・ジョン手術の傷跡があるという。書店でパッと見ただけでは気づかないかもしれないカバー写真の「それ」は、読み始めてからは目をそらせなくなるはずだ。

トッド=コッフィーだけではなく、ダニエル=ハドソンダイヤモンドバックスで活躍、2011年に13勝、手術後復帰して2シーズン120試合以上に登板)、プレーオフ中にドローンで指を負傷するという事件で話題を集めたトレバー=バウアーなどのメジャーリーガー、そして彼らを支えるトレーナーや代理人。さらに「ショーケース」と呼ばれる学生のプレーヤーが集まる全国大会(Pefect Game 社や、アンダーアーマーなどが主催)に出場するような青少年。最先端の医療研究だけでなく、内容によっては眉唾モノと言わざるを得ない独自の療法や投げ方を指導する人たち。そして第2の野球大国としての日本…投げ込み信仰、荒木大輔済美高校(安楽智大選手)、日ハム入りした立田将太選手などにも取材している(彼が取材した日本の馬見塚医師のもとにやってくる少年たちの現状は、なかなか日本のメディアで表に出てくることはないが、決して見過ごすことができない)。そして1974年に初めて手術をしたトミー=ジョン。

故障から復活を目指す男たちの苦闘、ではなく、シビアなルポタージュ400ページ余りを過ぎた先に、分かったことは「まだその全貌はわかっていない」ということ。一人一人の腕の違い、経験の違いを考えてみただけでも、定量的に調査できるものではない。しかし、このままではいけないという意識と、その対策の萌芽、引退まであがくことを決意するトッド=コッフィーのメールで本書は終わる(原著は2015年出版)。

 

手術の内容やけがの描写は目をそむけたくなるような生々しさがある。アメリカで加熱しているという「ショーケース」の様子も、ランキング制度をはじめとする危うさを感じるとともに、どこかの国の夏の全国大会のそれを思い出させるとともに、「青春」「伝統」などの名の下に、彼らをもっと過酷な状況に追い詰めているのではないかという問いを突き付ける。

10代半ばもいかない子供が肘の手術をする現状。しかし、本書の言葉を借りるのであればそういった状態になってしまう人・子ほど「もはやほかに選択肢がないくらい野球を愛している」。どうすればいいのか結論は出てない。けれど、このままでいいはずがない。そんな著者の強い意志が現れた一冊。

 

もう1点、出版業界の現状として記録しておきたいと思ったのは、「ヤフー・スポーツ」が著者のジェフ=パッサンをフルタイムのライターとして雇いつつも、この本の執筆活動に時間を割くことも許可したということ。日本においても、Numberやベースボールマガジン社だけでなく、Webメディアからもこういった良質なルポが出る日が来るんだろうか。

「夫婦を超えて」、あの頃より成熟したんですかね/上野千鶴子なんかこわくない 上原隆

先週、こんな記事が話題になっていた時、

diamond.jp

 

ちょうど読んでいたのが、91年1月から1年半かけて出版された、この本でした。

上野千鶴子なんかこわくない

上野千鶴子なんかこわくない

 

話は現在もコラムニストとして活躍する著者が、妻の「R」から別居を切り出されるところから始まる。なぜ彼女はそこに思い至ったのか。その背景には何があるのか。Rが傾倒していた上野千鶴子の論点をキーにして、著者は思索を深めていきます。

90年前後の上野氏は、アグネス論争や「<私>探しゲーム」「性愛論」の出版などで多くの人に知られるようになった頃。著者は上野の思想の中心に「実感を疑う」ことを挙げ、「それは、あなたの実感じゃないの?」の一言で相手≒男たちの主張の土台を揺さぶっていると主張。本書でも抜粋されている吉本隆明らとの対談でもその様子を垣間見ることができます。

 

ここで出てくる問題は2つ。

1.その「実感」はどのように生まれ、受け止められるのか

2.なぜ上野は「実感」を疑うことにいたったのか

 

「実感」の生まれるところについて、上野は構造主義に基づいた、「その時の社会が文化装置・文化規範として求めるものが作り出している」という主張に立つ。ゆえにその「実感」は何かを論ずるにはあまりに不確かなものである、というものです。そして著者は個人に求める異性を求めることすら文化装置である→「男らしさ」「女らしさ」「結婚すべきだ」「子供を産み育てるべきだ」も変わる可能性がある→社会の構成員(特に女性)にとって抑圧的なところをなくすようにしたらいい、というのが上野のフェミニズムであると説きます。

実感を疑うことになった経緯……ここは中野翠との論争、上野の来歴などから、関心が「私」自身から私とあなたの「関係」になったことに触れます。そして関係の極致としての「対幻想論」。「一人の男と一人の女の二人で互いに依存しあい、相手無しではいられない」と思う観念。Rもまた、その対幻想への理想を持っていた一人ではなかったかということに著者は思い至る。しかし、詳細は省きますが、発表からおよそ10年後の91年、上野は「対幻想を望んでいたのは女のほうだけだった」という失望を表明する。なぜ女だけだったのか。それは「男と良い関係を結ぶことだけが女の幸せだ」という文化規範の伝承にあった。

 

しかし、前述の通り文化規範は社会の変容で変わる可能性がある。時代が変わって、社会が変われば、男女の間にはまた違った「関係」を求めることになるかもしれない。そこに至って、著者は対幻想は「理想主義」だったのかもしれないけれど、その次を、「対の思想」という考えで受け取りたい、とします。それは、実現できなかった理想をあきらめるだけでなく、その思想を持って生きていくこうとすること、しがみついていくこうとすることでした。著者は女性を性的対象として見なくなったことで、女性の友人ができたことを例に、「性」に向き合うのではなく「あなた」と向き合うことができるのではないかという可能性への実感をにじませながら、本書は幕を閉じます。

 

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さて、「わたし」と「あなた」から、二人が「どうありたいか」についての視点への移り変わりは、歳を重ねたから自然になるもの、というわけでもないのかなぁというのが、僕の中で冒頭の「告ハラ」話へのとつながっていくわけです。冷静に考えるとどうにかなるはずがないのに、どうにかなるかもなんて下心が全くない人なんて少ないんじゃないかとか思うわけですが、それを表に出さないのが大人でしょうと思うと、まだまだ世の男性たちは成熟には遠いのかもしれない。私の身の回りに告白ハラスメントを「した」「された」人は今のところ聞いていないけれど、聞いてないだけで実在はしそうだよなぁという説得力というか、思い当たるフシみたいなものが、少なからず起きたBuzzに表れてるんじゃないかとか思ったりします。

 

歌から世相を見れば、「どんなときも」「僕が僕らしくあるために 好きなものは好き」と言うなんて、場合によっては告ハラを先取りしたような歌がヒットしていた91年。2016年には「夫婦を超えてゆけ」「二人を超えてゆけ」という時代にはなってるわけで、そこには時代の移り変わりを感じる。それこそ若さやセックスを伴う男女関係、既存の夫婦観といった呪いからの離脱を謳ったドラマであって、そういう点では、文化規範の変化が間違いなく起こっていると言えるのでしょう。

 

そうなったときに身もふたもなく思うのは、まぁそれでどうやって子どもができて社会が再生産されていくのかみたいな話で、渡邉ペコの「1122」とか、鳥飼茜あたりがまずは物語にしてくれるんじゃないかなぁなどと、思ったりするのでした。