休日にライターのようにラグビーの取材をすることもある(けど最近お休み気味)

平日は私企業で営業マン、休日は時々ラグビーイベントとかの取材をしている30代男性のブログです。でも最近は本とか映画とかの話が多いです。

【映画】ザ・スクエア 思いやりの聖域/自分だけ贖罪しようなんて許さない

カンヌ映画祭パルムドール受賞、スウェーデンの社会風刺映画。スウェーデンの映画ってそう言えばイメージ無い。

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現代美術館のチーフ・キュレーターであるクリスティアンは、シュッとした感じのナイスミドル的な雰囲気。美術館でレイヴパーティーみたいなのを開いたりして、痛飲したり、女性と行きずりの関係になることもしばしば。そんな彼が次の展覧会で展示すると発表したのが映画には登場しないアリアスというアルゼンチンの作家による「ザ・スクエア」。地面に描かれた正方形の作品で、その中は「思いやりの聖域」。「すべての人が平等の権利と義務を持つ」とされる。

ある日街中でいきなり助けを求める女性と、それを追いかける男性の騒ぎに巻き込まれて財布とスマホを盗まれたあたりから、彼の運命は暗転していく。

GPSで突き止めた犯人の住むマンション。全戸に脅迫めいた手紙を配りましょう、なんて部下のアイデアを採用し、無事帰ってきたのだけれど、当然関係ない家にも配ったもんだからそれをきっかけに波紋が起きたり、その波紋に巻き込まれた中でよく確認せずに通した展示会のPR企画は炎上マーケティング。パーティきっかけで関係を持ってしまったジャーナリストは家にチンパンジーを飼う変わり者で、美術館のパーティーでは野生のゴリラ的なパフォーマンスをしているアーティストがが何の前触れもなく限度を超えたパフォーマンスを行って……と、まぁ色々起きていって…という話。

 

一つ一つが連鎖していって、細かなところでいろんな問題が浮き彫りにされる。わかりやすいところでは動画の炎上マーケティングの話だったり、いろんなきっかけになる物乞いだったり(スウェーデンにはあんなに物乞いがいろんなところにいるんだろうか)、別れた妻は出てこないし、娘はなんか問題抱えてそうだけどはっきりしないし、そもそもザ・スクエアの作者も出てこない。謝罪のビデオは届いたのかわからないし、とてもじゃないけどそんな会見ですべてが収まるレベルの炎上じゃないけどそれ以上は描かれず、すべては回収されきれないまま、クリスティアンの贖罪がなされないまま、話は終わる。まるで、あなただけ救われようなんてダメなんだからね、と言わんばかりに。

 

舞台、主人公の仕事こそ現代美術館のキュレーターではあるけれど、描かれているところはだいぶ実際の美術館とは違うんじゃないの?という感じもあって、あくまでもメタファーなんだろうな、という感じ。

それはつまり「現代美術」を「美術館」で楽しむ余裕があって、赤ん坊を抱えて打ち合わせに参加できて、ショッピングモールで両手にナイキやCOSの買い物袋を抱えたりできるような人との分断。

フィジカルには同じ場所にいるのに実際には見えない線が引かれている。それこそ彼らは、スクエアに囲まれているのかもしれないし、スクエアに閉じこもっているのかもしれない。そこから何かのきっかけで足を踏み外せば、二度と戻れないのかも。

【読書】さよなら未来/あるいは変化を志向する勇気について

電撃的な退任自作自演インタビュー、読みたかった物流特集が出ないことがわかってから約4か月。「ついに出た」という感じ。

 

 

 

「エディターズ・クロニクル2010-2017」のサブタイトル通り、過去に執筆されたものの集大成、なんだけれど、例えばWIREDの序文でも雑誌の時のデザインとこの本のデザインとでは見え方も変わる。肝心の内容は、詳細まで落とし込むとテーマは多岐にわたるけれど、通して浮かび上がってくるのは、「若林恵」という人の勇気なんだろう。

復活後のWIREDもテーマによって買ったり、買わなかったり、dマガジンで読んだり、ぐらいだったわけですが、Twitter見てる限り、そういう人もけっこう多くて、そういう人ほど「なんだか読まなきゃ」ってなっているパターンが多い気がする。

 

読み終えたのはもう先週の話で、レビューもさっき挙げたような人がたくさん書くんだろうなぁと思ったりしていたのだけれど、おりしも、竹熊さんのライター本をきっかけにしたのか、日本のネット住民の年齢層がだいぶ上がってきたのか(少なくともインターネットで「テキスト」を嗜好する人の年齢はだいぶ上がってそうだ)、40代を超えてから変化をすることのしんどさみたいなのをぶっちゃけるものをいくつか目にすることがあって、あぁもしかしてこういうことなのかな、という気がしたので、それはまとめておこうと思って書いている。

 

fujipon.hatenablog.com

20代から30代前半の頃は、「ここで我慢してがんばっておけば、この先、きっとプラスになる」と自分に言い聞かせることができた。
 でも、40を過ぎると「ここで我慢したって、もう、天井は見えてるじゃないか。もう、この先にいいことなんてそんなにないんだから、言っちゃえよ、やっちゃえよ」という、自分の内なる声が聞こえてくるのです。それと「いや、ここでレールから外れたら、お前はもうどん底まで落ちていくだけだぞ。家族にも迷惑がかかる。なんとか踏ん張れ」という抑制の声が、つねに闘っている。

自分はまだ30代も3分の1を超えてもいない状態ではあるのだけれど、何となくこのブログに書いてある感じはわかるところがある。話は飛んじゃうけど、「子供はいいよー」みたいな話も出てくるのも、成長していく姿、できないことができるようになるのを間近に見れるよろこび、快楽みたいなのが背景にある気がする。

 

話を戻して、そういうこの先の自分をめぐる危ういバランスに気づいたとき、自分を含めてたいていの人は、違うベクトルでがんばるか(例えば子育てとか)、気づかないふりをするか、なんとか踏ん張るか(知らんふりするのもこの枠かな)、という話になると思う。

で、この本にまとめられているのは、そういう気持ちのときに踏ん張るどころか、「いや、でもさぁ」と踏み出してきた記録なのだろうと思うわけです。あるいは、そんな気持ちにすらなってないのかもしれない。実際に若林さんと会話をしたことがあるわけじゃないから、そこまでは分からないけど。

なんとなくこの先……みたいなことを考えたときに、東京で消耗するのが嫌になって田舎に行ったり、ベンチャー立ち上げて一旗上げてやる、でもない。YouTuberで好きなことで生きてくわけでもない。真摯に自分のやることと向き合って、流すことをやめて。そういう現実と向き合ってく勇気。そしてそれは周りのそういう人を応援していく勇気でもある。

 

なにか新しいこと、人とちがったことをするには勇気がいる。それは、なにか新しいアイデアをもった人だけに限らず、それをともにつくったり、それを伝えたり、あるいはそれを教示する側にも、勇気を強いる(中略)「新規事業開発」の部門についていえば、おそらく一番勇気を必要とするのは部下の勇気を評価する上司だ。冒険を尊ぶ社会では、みなが冒険をしなくてはならない。勇気には、勇気をもって応えよ。

(P281 「音楽にぼくらは勇気を学ぶ」)

 

自分は今、勇気を評価してもらう立場にあるのだろうと思うと、それに賭ける勇気を持ってもらえるように、相手が理解できるようにその根拠を示さなくてはならない。もし自分が将来、そういう立場になったときは、その勇気を認めることをためらわないようにしたいとも思う。

 

とはいえ、こういう気持ちをいつも持ち続けることはなかなかできないもので。ゆえに若林さんの記録は尊くて、ゆえに自分は折りにふれてこういう本で勇気をドーピングするんだろう。

それこそ、いつでも未来に驚かされていたいから。

 

※物量的な大変さももちろん、編集者の本を編集するという、思いっきり自分を試される行為を経てこの本を世に出してくれた、編集担当の岩波書店・渡部朝香さんの勇気も尊い

【映画】おとなの事情/罪を犯したことのない者だけが石を投げよ、的なイタリア映画。

タイトルは、見終わって思い起こした聖書の一節から。

同じゲームをできる人とだけ、この映画を見よう。

できなければ、一人で見よう。

 


映画『おとなの事情』予告編

ある夜、幼なじみたちがそのパートナーを連れて、食事会の席に集まった。新婚カップルのコジモとビアンカ、倦怠期の夫婦レレとカルロッタ、思春期の娘との確執を抱えているエヴァとそんな妻と娘の間に板挟みに合って悩むロッコ、そして最近“彼女ができた”が、ひとりでやってきたバツイチのペッペ。秘密なんてない、と豪語する気心の知れた7人は、ちょっとしたことがきっかけである携帯を使った“信頼度確認”ゲームを始める。ルールは、それぞれのスマートフォンをテーブルの上に置き、メールが届いたら、みんなの前で開いて読み上げること。電話が鳴ったら、スピーカーフォンに切り替えて、みんなの前で話すこと。
 やがて、電話が鳴り、メールが届き始める。ひとつコールが鳴る度に、暴かれていくそれぞれの秘密。妻に内緒で心理カウンセリングに通っていること、豊胸手術を受ける予定があること、浮気、そして性癖まで。たわいない遊びが、長年培ってきた友情と絆に波紋を投げかける……。
スマホに隠された“極秘の事実”が明らかになった時、夫婦、親友の信頼関係はどうなってしまうのか?

と、いうわけで、いかにも今日らしいテーマ設定で行われる、シチュエーションコメディみたいな、舞台にもなりそうなストーリー。

月食の夜に集まった7人。浮気だなんだの話であれば、スマホじゃなくても何かのきっかけでこの手の話はありそう。ただ暴き出されるものがそこで終わらない。

夫婦間の事情もそうだけど、セクシャリティの話も入ってくるのが、言い方が良くないかもしれないけれど、今日性のあるテーマ。終盤に出てくる「言えるわけないだろ、2時間ゲイだっただけでこの扱いだ」という一言は、自分もその立場じゃなければどうふるまっていたかわからない、と思うと、自分の胸にそっと手を当てたくなる。

 

スマホという、パブリックとパーソナルを行き来する存在。それをきっかけに、すべてがオープンになる世界って本当に幸せなんだっけ、という問いも投げかける。

張られた伏線をうまく回収しながらなだれ込むエンディング。賛否両論あるかもですが、この含みを持たせる感じが、いいと思う。

 

リアルに感じて、考えるにはしんどすぎる世界になってしまったので/ビリー・リンの永遠の一日

海外旅行に数日行って、帰ってきて、何となく日常にズレみたいなものを感じることがある。過ごしていく中でそのズレは少しずつなくなっていって、また日常に戻っていくのだけれど、ズレを感じることで、それまで見えていなかったことが見えたりするきっかけにもなったりする。 

ビリー・リンの永遠の一日 (新潮クレスト・ブックス)

ビリー・リンの永遠の一日 (新潮クレスト・ブックス)

 

ビリーは19歳。高校卒業前にちょっとトラブルがあって、兵役につくことになって、イラク戦争へ。戦地でヒーローとなった彼が所属する分隊は、戦意高揚のために一時帰国する。大統領をはじめ全米各地での歓待を受け、今日アメフトのハーフタイムショーでビヨンセとともに出演し、そして、また戦地に戻る。 その数日間を描いた小説。

「戦地で何があったか」は明確に描かれない。ただ二人の仲間が、命を失ったか、あるいは大ケガをしてしまっている。帰国中のツアーはすべては描かれない。しかしずっと映画プロデューサーがついて回って、映画化しようとしている。一日だけ、実家に帰って家族と過ごす。そしてアメフトの日。最後の日。

それまでのツアーの中で感じてきた違和感が積み重なって積み重なってのその日であるんだろうけれど、ビリーはずっと違和感を抱えている。どっちが現実なんだろう、どっちが「まとも」なんだろう。ずっとその違和感の正体を見極めようと、考え、自問自答し、観察している。それまでなら出会うことすらなかったであろう大統領、富裕層、ショービジネスの世界の人々、実業家、神父、アメフト選手。その違和感に、誰も気づかないのか、気づかないふりをしているのかわからないけれど、逃げることを進める姉も、運命のように出会ったチアガールにすらも、分かってもらえた感覚を持たないまま、ビリーはまた戦地へ戻っていく。唯一もしかしたら、と思えるのはアメフトのスタジアムで働いているウェイターたちぐらいか。でもそれも、一部分でしかない。

 

描かれる「アメリカ的なもの」は、アメリカだけでなくて、今自分たちが生きている世界……どこかで泥沼の毎日が続いていて、その土地になんの縁もないまま送り込まれた兵士が殺しあっていて、その裏でものすごい繁栄と狂騒があって、その落差に目を向けるほど人は強くなくて。でも、「それを知らない」とは言えないぐらいに、つながってしまっていて。そういう世界の姿なんだと思う。

 

2004年11月。感謝祭のアメフトの試合のハーフタイムショーで、実際にビヨンセを含むディスティニー・チャイルドのバックで行進し、歌い踊る大学と軍のマーチングバンドの姿を見て、これがどんな作用を頭にもたらすのかを考えたところから、この物語の着想は得られたのだという。その想像力が、救いなのかもしれない。

 

 

映画にし甲斐がありそうな…と思っていたら、やっぱり映画が。日本では未公開だったけれど、ソフトは発売されるようで、まずはレンタルで、この週末に見るつもり。


『ビリー・リンの永遠の一日』3月7日ブルーレイ&DVD&UHD発売/2月2日よりレンタル開始

映画「まともな男」/やめろー、やめてくれーのそれはまさにホラー

秋の公開時に見に行きたかったままで行けなかった映画を、見てきました。

 

youtu.be

休暇で来たスキー場。預かっている上司の娘の身に、ある悲痛な事件が起こる。父親トーマスは保護者として穏便に済ませようとするが、事態はどんどん悪い方向へ進んでゆく……。

平凡な、というよりも凡庸な会社員トーマス。先日アルコールが入った状態で気に入らない同僚の車にわざとぶつけるトラブルを起こし、セラピーに通っている。「どうしてそんなに飲んでしまったと思いますか?」という問いにも「たまたまだ、私はいたって“まともな男”なんだ」と答えている。そしてトラブルのことも、セラピーのことは家族には内緒。まぁちょっとしたお酒のトラブルなのだ、と。

家族でやってきたスキー場。途中で家族とちょっともめたり、妻や娘との約束を守っていないことを指摘されたりもあったけれど、上司の娘も預かって別荘へ。そして……

というのがあらすじ。

 

まぁ予告編を見れば推して知るべし、な内容なのだけれど、この「まともな」会社員トーマスの感じが素晴らしい。どんどんドツボにはまっていく。ただそれは「いかにも」なわざとらしい感じ、フィクションの感じではなく、いかにもありそうな、簡単に起こってしまいそうな出来事、保身、優柔不断が積もり積もって最後の事件へ。もう途中から、やめろ、やめてくれ、もうダメだ、トーマスやめるんだ、それじゃもっとひどいことになってしまう…!となってしまう感じはまさにホラーのそれだよな、と思うのです。

起こりうる最悪の事態を積み重ねて、それでも人生は、日々は続いていく。最後のパーキングでのシーン、その後の運転シーンはせめてもの救いなのか、後味の悪さを増すための演出なのか。

 

 

いやはや、思ってた以上にスリリングだった。

今さらながらなんで決勝が先なんだろう/第55回ラグビー日本選手権

明けましておめでとうございます。今年もゆるゆるとやっていこうと思っています……!

 

さて、だんだんラグビー色が抜けてきてしまっているのですが、今シーズンもいよいよ佳境。こないだの3連休はトップリーグ総合順位決定戦、大学選手権決勝、高校ラグビー決勝と続き、いよいよ週末は【「第55回日本ラグビーフットボール選手権大会」(兼トップリーグ総合順位決定トーナメント)】の決勝であります。

すっかり土曜日が5位以下の試合があって、日曜日に1~4位だと思い込んでいたのですが、なんと逆なんですね。なんていうか、すでにラグビークラスタから指摘も入ってますが、センスが……。いや、今さら言うなって話なんですが。

共催であるNHKさんの放送の都合について言及されている方も何人かいらっしゃって、ちょっと調べてみると、確かにこれまではうまく避けて日程が組まれていたようです。

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・第52回 決勝 2/28(土)⇔初場所 1/11~25

・第53回 決勝 1/31(日)⇔初場所 1/10~24

・第54回 決勝 1/29(日)⇔初場所 1/8~22

・第55回 決勝 1/13(土)⇔初場所 1/14~28

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背景には2月で3シーズン目を迎えるサンウルブズの準備期間を確保すること、数少ないテレビ放送の機会を逃さないことなど、いろいろあるとは思いますし、その1つ1つは大事なことではある。14日の試合を予定しているチームだって、消化試合なんて気持ちでやらないと思うし(それどころじゃない試合もあるし)、試合そのものは楽しみにしてる。でも、何となく優先順位が違う気がする。

 

なかなか全員が納得する形を作るのは難しい(し、何にでもケチをつけたがる人もいるし)のだけれど「優先順位はこうで、だからこういうフォーマットにしましたよ」って説明があるとなおいいですよね。また、そういうのにパッと気づいて、最初に質問ができるような観察眼と想像力を身につけたいものです……。

 

何はともあれ、週末はラグビー。寒いけど、がんばるぞー。

正しさの危うさ/ブレグジット秘録 クレイグ=オリヴァー

2016年6月23日。イギリスがEU離脱をめぐる国民投票を実施した日。そこに至るまでの半年間を、「政務広報官」という立場で過ごした著者による、記録。

 

ブレグジット秘録 英国がEU離脱という「悪魔」を解き放つまで

ブレグジット秘録 英国がEU離脱という「悪魔」を解き放つまで

 

600ページを超えるボリュームで記された本書は、本当に日記というか、記録。残留側の最前線に立って活動した彼が、国民投票までの半年間に何をどう見て、何を感じたか、ということが生々しく伝わってくる。背景には国民投票をそもそも公約にしていたこと、いつかは通らざるを得ない道だったこと、労働党スコットランド独立党との絡みをはじめとした「国民全体の問題」にすることの難しさなど、いろんな話が絡み合っているのだけれど、一番重たいなぁと思うのは、報道に関する話。

 

「公平性」のために、離脱派、残留派両方の主張を紹介する。しかしその主張の根拠が間違っていたら?速報性を重視するために十分な検証がなされていないとしたら?一度ニュースになったものが広がったあと、報道番組、専門番組で訂正されたとして、それを見る人はどれぐらいいるのか?日本でなら、ヤフトピに出た話が間違っていたら?文春の話に根拠がなかったら?スマイリーキクチさんの問題もあったけれど、これから問われるのは、例えば憲法が絡んだり、社会保障が絡んだり。現代における「事実」の扱いの難しさをまざまざと見せつけられる、突き付けられる。

 

ブレグジットからアメリカの大統領選挙、2016年の言葉は、確かに「Post Truth」だったのだと痛感するばかり。その中で、どう情報を受け止めるか、そしてどう発信していくのか。そういう話を現代を生きていく上での最低限のリテラシーとして、社会を構成する「みんな」が身につけることができているのか。突き付けられているのは、大きな問いだ。