休日にラグビーライターをすることもある(けどお休み気味)

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「夫婦を超えて」、あの頃より成熟したんですかね/上野千鶴子なんかこわくない 上原隆

先週、こんな記事が話題になっていた時、

diamond.jp

 

ちょうど読んでいたのが、91年1月から1年半かけて出版された、この本だった。

上野千鶴子なんかこわくない

上野千鶴子なんかこわくない

 

話は現在もコラムニストとして活躍する著者が、妻の「R」から別居を切り出されるところから始まる。なぜ彼女はそこに思い至ったのか。その背景には何があるのか。Rが傾倒していた上野千鶴子の論点をキーにして、著者は思索を深めていく。

90年前後の上野氏といえば、アグネス論争や「<私>探しゲーム」「性愛論」の出版などで多くの人に知られるようになった頃か。著者は上野の思想の中心に「実感を疑う」ことを挙げ、「それは、あなたの実感じゃないの?」の一言で相手≒男たちの主張の土台を揺さぶっていると主張。本書でも抜粋されている吉本隆明らとの対談でもその様子を垣間見ることができる。

 

ここで出てくる問題は2つ。

1.その「実感」はどのように生まれ、受け止められるのか

2.なぜ上野は「実感」を疑うことにいたったのか

である。

「実感」の生まれるところについて、上野は構造主義に基づいた、「その時の社会が文化装置・文化規範として求めるものが作り出している」という主張に立つ。ゆえにその「実感」は何かを論ずるにはあまりに不確かなものである、というものだ。そして著者は個人に求める異性を求めることすら文化装置である→「男らしさ」「女らしさ」「結婚すべきだ」「子供を産み育てるべきだ」も変わる可能性がある→社会の構成員(特に女性)にとって抑圧的なところをなくすようにしたらいい、というのが上野のフェミニズムであると説く。

実感を疑うことになった経緯……ここは中野翠との論争、上野の来歴などから、関心が「私」自身から私とあなたの「関係」になったことに触れる。そして関係の極致としての「対幻想論」。「一人の男と一人の女の二人で互いに依存しあい、相手無しではいられない」と思う観念。Rもまた、その対幻想への理想を持っていた一人ではなかったかということに著者は思い至る。しかし、詳細は省くが、発表からおよそ10年後の91年、上野は「対幻想を望んでいたのは女のほうだけだった」という失望を表明する。なぜ女だけだったのか。それは「男と良い関係を結ぶことだけが女の幸せだ」という文化規範の伝承にあった。

 

しかし、前述の通り文化規範は社会の変容で変わる可能性がある。時代が変わって、社会が変われば、男女の間にはまた違った「関係」を求めることになるかもしれない。そこに至って、著者は対幻想は「理想主義」だったのかもしれないけれど、その次を、「対の思想」という考えで受け取りたい、とする。それは、実現できなかった理想をあきらめるだけでなく、その思想を持って生きていくこうとすること、しがみついていくこうとすることだ。著者は女性を性的対象として見なくなったことで、女性の友人ができたことを例に、「性」に向き合うのではなく「あなた」と向き合うことができるのではないかという可能性への実感をにじませながら、本書は幕を閉じる。

 

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さて、「わたし」と「あなた」から、二人が「どうありたいか」についての視点への移り変わりは、歳を重ねたから自然になるもの、というわけでもないのかなぁというのが、僕の中で冒頭の「告ハラ」話へのとつながっていくわけです。冷静に考えるとどうにかなるはずがないのに、どうにかなるかもなんて下心が全くない人なんて少ないんじゃないかとか思うわけですが、それを表に出さないのが大人でしょうと思うと、まだまだ世の男性たちは成熟には遠いのかもしれない。私の身の回りに告白ハラスメントを「した」「された」人は今のところ聞いていないけれど、聞いてないだけで実在はしそうだよなぁという説得力というか、思い当たるフシみたいなものが、少なからず起きたBuzzに表れてるんじゃないかとか思ったりします。

 

歌から世相を見れば、「どんなときも」「僕が僕らしくあるために 好きなものは好き」と言うなんて、場合によっては告ハラを先取りしたような歌がヒットしていた91年。2016年には「夫婦を超えてゆけ」「二人を超えてゆけ」という時代にはなってるわけで、そこには時代の移り変わりを感じる。それこそ若さやセックスを伴う男女関係、既存の夫婦観といった呪いからの離脱を謳ったドラマであって、そういう点では、文化規範の変化が間違いなく起こっていると言えるのでしょう。

 

そうなったときに身もふたもなく思うのは、まぁそれでどうやって子どもができて社会が再生産されていくのかみたいな話で、渡邉ペコの「1122」とか、鳥飼茜あたりがまずは物語にしてくれるんじゃないかなぁなどと、思ったりするのでした。