休日にライターのようにラグビーの取材をすることもある(けど最近お休み気味)

平日は私企業で営業マン、休日は時々ラグビーイベントとかの取材をしている30代男性のブログです。でも最近は本とか映画とかの話が多いです。

【映画】その景色の意味を知ったら、何も言えなくなる。/セメントの記憶-Taste of Cement-

静かに突きつけられる美しすぎる光景。その景色にどんな意味があるかを知ってしまったが最後、何も言えなくなる。「セメントの記憶」はそんな映画。

2019年公開『セメントの記憶』公式サイト 

 

内戦からの復興が進むレバノンの首都、ベイルートは、「復興バブル」とも言うべき状態の建築ラッシュが続き、そこには凄惨な内戦が続く隣国、シリアから逃れてきた難民たちも労働者として多く暮らしている。

そんな労働者たちが働くある高層建築の現場。日が昇ると、彼らはコンクリートの地面に空いた穴から顔を出し、エレベーターに乗って高層階に上がり作業を続ける。眼下に広がるのは美しい地中海、発展した街並み、車の列。日が沈む頃、彼らはまた穴に戻り、雨が降ればそのまま水が溜まり、洗濯物は日の当たるような場所に干すことなど当然叶わず、照明は裸の電球をそのままつけたり外したりするような、「劣悪」以外の形容詞でしか表現できない寝床で、破壊される故郷をテレビやスマホで眺めながら夜を乗り越える。その現場で撮影された「映画」(分類としては「ドキュメンタリー」なのだろうけど、そのカテゴライズに興味はない、と語る監督にならって「映画」とします)。

 様々な事情……例えばこの映像が自らの仕事はもちろん、故郷に残してきた家族も含めてどこで影響が出るかわからないことなどから、その現場の人々は何も語らない。ゆえに映画は全編を通じて不思議な静寂が続く。高層ビル(の建築現場)からの美しい地中海とベイルートの街並みがあり、時折、破壊されセメントの雪が舞う光景と、その中で必死に救助活動を行う人々、地中海に沈められたレバノン内戦の記憶が挿入される。工事の音と景色は戦場のそれとシンクロする。そして、家族の記憶と、美しい海の絵について語るストーリー。

語り部もいない、何が変わるわけでもない。美しい景色とのコントラストがただただ強烈で、そこに沈黙が加わって安易な共感や理解は拒絶され、淡々と、それがゆえにごまかしなく突き付けられる。触れることすら許されない景色は、いつしか労働者たちにとってどうやっても中に入ることができない絵画になる。

 

 

と、まぁ映画そのもののアウトラインを振り返るだけでもヘヴィな気持ちになってしまうのですが。内戦を乗り越えたレバノン(それこそ映画「判決」で見出されたような、「希望」を見出しつつあるのかもしれない、シリアの隣国)の発展・復興が、まさに内戦で故郷を蹂躙されている難民によって築かれているという矛盾。あるいは、内戦から逃げて、建築を通じて新しい何かを作り出しているはずの人たちが、しかし基本的人権すらない環境に置かれてしまう状況。本当に「救い」の無い状況を前に、私は何を見出せばいいんだろうかとダウナーになってしまうことこの上ない映画です(褒めてます)。

 

しいて何か見つけるとすれば、「国外で働くすべての労働者に捧ぐ――」とされていることなのかな。幸か不幸か、「日本で、日本人を相手に働く日本人の私」はそれこそこの映画が捧げられた労働者たちの対極にいると言えるわけで。

 

たまたま最後の監督挨拶があると知って見に行ったお昼の会。パンフを買って質問をしてから握手を交わした右手をじっとみながら、渋谷の雑踏にまぎれたくなる映画でした。
上映はユーロスペースにて。こないだ公開されたばかりだからまだしばらくはやってるはず。ぜひ。

セメントの記憶 -Taste of Cement-