休日にライターのようにラグビーの取材をすることもある(けど最近お休み気味)

平日は私企業で営業マン、休日は時々ラグビーイベントとかの取材をしている30代男性のブログです。でも最近は本とか映画とかの話が多いです。

世界報道写真展

世界報道写真展は、オランダに本部を置く世界報道写真財団が開催するプロの写真家を対象にした世界報道写真コンテストの入賞作品で構成する写真展です。今年は125カ国から5019人の報道写真家の応募があり、80536点もの作品が集まりました。本展では、「スポットニュース」「ニュースの中の人びと」「ポートレート」「スポーツ・フィーチャー」など10の部門から選び抜かれた59名の作品約200点をご紹介いたします。地球上では、今なお多くの場所で争いが起き、人々が飢え、苦しみや悲しみに満ちた日々を送っています。戦闘に疲れ果てた若い兵士の姿、虐待に苦しむ子どもたち、逃げまどう人々・・・。私たちが普段目にすることのないこのような事実を、写真はありのままに伝えます。その一方でフォトジャーナリストの命はその使命と引き替えにされる事も少なくありません。昨年、ミャンマーで日本人ジャーナリストの長井健司さんが撃たれて亡くなったことを覚えておられる方も多いでしょう。


51 回目を迎える今年のコンテストで大賞を受賞したのはイギリス人の報道写真家、ティム・ヘザリントンでした。アフガニスタンのなかでも激しい戦闘が続くコレンガル渓谷にある掩蔽壕で、戦闘の合間に休息を取る兵士の姿が写し出されたティムの写真(『戦場近くの壕で休息をとる米軍兵』)からは、大国の疲弊した姿もうかがえます。私たちが生きている地球上で何が起きているのか、そして写真家が危険を侵してまでも伝えたいものが何であったのか。ニュース性と写真表現に優れたフォトジャーナリズム最高峰の作品をご堪能ください。


東京都写真美術館ホームページより抜粋
http://www.syabi.com/details/wwp2008.html

選考基準などをめぐる裏事情とかも色々ありそうですが、
そういったものをひとまず置いて見たい展示であります。
特に印象に残ったものをいくつか。

ポートレートの部組写真1位「トルコ東部の学校の女生徒」
写真そのものというよりも、「学校に行く」ということに対する
価値観みたいなものについて考える。
「学校に行きたくても行けない子」の存在について、
問題を多く抱えている(とされる)日本の学校現場と比較して
日本は当たり前になりすぎててどうこう、とか、
日本の生徒はもっとその幸せに感謝するべきだ、
といった議論があるかと思うけれど、
そもそも学校に通うことの価値、意味ってなんやろう、ということが、
本の学校現場を考える上で欠落しているんではないだろうか。
このポートレートが撮影されたトルコがそうなのかわからへんけど、
例えばアフガンみたいなイスラム教の影響力が強い地域において、
女性に対する教育の否定、それによって生じるある種の男尊女卑社会、
女性に対する暴力とか、そのほかの問題を乗り越えるために
学校に通うことに子どもたちは意味を見出していると思う。
いわゆる発展途上国後進国の子どもらが、学校に通うことに対して
「いっぱい勉強して医者になる」「発明家になる」とか、
そういう夢を語れるのもそれによるものだろう。
翻って日本国内で考えてみるに、「なぜ学校に通うのか」という問いに対して、
「いい会社に入るため」という答えはさすがにもう少ないと思うけど
(それに代わって「勝ち組になるため」とかありそう)、
あまりに答えを子ども自身が得られていない(親も含め)のではないか。

自分自身は学校は突き詰めていけばどうやって生きていくのか、
職業選択も含め、人付き合いなどを考え、選び、切り開いてく場だと思うけれども、
もし子どもがいたならなんでそう思うのか、
といった話を真摯に向きあって考えなアカンのやろと思う。


クルド労働者党の兵士の写真
銃を抱えた女性の後姿の写真です。
風景と、その髪の美しさと、それが兵士の写真であるというアンバランス。違和感。

長井健司の仕事
映像のコーナー。
見たのはタイのエイズの子ども、イラククラスター爆弾の被害、パレスチナ問題。
最後に流れた長井さんの自宅と、歌が印象的。
展示のほぼ最後に改めてフォトジャーナリズムとは何かを考える。
エグすぎる、といって子どもをつれて出ていった母親のことはmixiにも書いたけれど、
そのあと動物の写真を「かわいいから見よう」って言ってつれてったから余計に
インパクトがあったんやろうなぁ。
写真を通して提起された問題に対して僕自身は何か出来るわけではない。
正直なところ何かしようとするわけでもない。
そういう「重さ」と向き合うことぐらいで、日々の自分の幸せに感謝することも難しい。
相対的には幸せな状況なのかもしれないけれど、
絶対的にはまた別だと考えるエゴを否定できひん。
あの母親はあまりに強烈に、直接的に重さを突きつけられて(しかも子どもたちの前で)
正直に逃げ出したんでないか、と思う。
とはいえ、自分もなーんも言えへん。

難しいなぁ。

ってほらまた書いてしまった。