積読とインテリメガネ
積読がたまっている。たぶん30冊は下らない。電子も入れればもっと増える。
読み終えた本も本棚から溢れている。来年の夏までに引っ越しをする予定があって、引っ越し先は大きな本棚スペースがあるのだけれど、もはやそこも埋まっちゃうんじゃなかろうか、というぐらい。
なんやかんや、毎月1.5万円ぐらい本に使っている傾向があって(電子、マンガも含む)、きっと買ってる本の数で行くと毎月12,3冊ぐらい。図書館で回ってくる本が4~5冊。でもずっと記録をつけているブクログによると、月に読めている本の数は14.6冊なので毎月ちょっとずつ積読が増えている。
人にはいろんな「買い物神経症」があると思うけれど、僕は間違いなく本がそれにあたっていて、会社が神保町に引っ越して、平日にも東京堂に行けるようになってその傾向が加速している。
溢れる本に自覚はあって、毎日出版されている本の数と自分が読める限界みたいなものも当然認識はしているし、DINKSやってる今だからまだ読む時間があることも感じている。仕事、映画、スポーツ、家族、休息……元芸人さんに言われるまでもなく、24時間は奪い合いであることはわかっていて、読む時間を増やせないなら読む速さを上げるしかないのだけれど、速読は身につかず、それでも、ふとおもしろそうだと感じた本を、それが「読みたい」「欲しい」という気持ちがなかなか抑えられない。実際全部読み切れていないし、後になってなぜこの本を?というものもある。
もはや何を読むかではなく、何を読まないかだ、なんてFacebookに書いたりもしたけれど、じゃあ読んだ本をどこまで血肉にしているか、と問われると言葉に詰まるし、もはやその本を「買っている自分」「読んでいる自分」を買っている感じすらある。
たぶんその感覚は正しくて、ゲンロン友の会なんてずーっと会員やってるけれど、でもじゃあデリダがどうした、ドゥルーズがどうした、と言われると自分の言葉で語れるほど何か体系的な知識を得られているわけではない。ただただ開いて、目を通して、それだけ。ただふとした時に、いろんなものがつながることがあって、それがせめてもの救いなんだろう。
人生には限りがあって、天才でもないので自分の頭で考えられる量には限界があって、富豪の息子ではないので、毎日あくせく働いているので好きにあちこち行けるわけではない。
本はほかの人の目を、頭を、経験を借りることだと言った人がいたと思うけど、本になるまでに注ぎ込まれた時間・労力を数千円で借りて、ひたすら浴びていきたい。編集者を気にしたりとか、深く読めている自信も全くないし、消費者に過ぎないとは思うけれど、そこは少しでも変えていければ。そうすれば真のインテリメガネも近づいてくるだろう。